2011年12月13日火曜日

お茶っこ会フィールドワークに行ってきました Part.2

Part.1からのつづきです。 

 


3日目
大船渡市と陸前高田市を見学、碁石海岸(リアス式海岸で観光名所)を散策
大船渡市に住むAさんに、市内を案内していただきました。Kさんは、自宅から50m程離れたところで発見したお気に入りの洋服を着て来てくれました。海の目の前にあったAさんの自宅は全壊してしまいまだ瓦礫が残っていました。旦那さんは、家が流されていく様子を高台から見ていたそうです。「地震直後、避難しましょうと誘ったけれど、大丈夫よ、と言っていた人が津波で流された」「あの木の裏手の家のご夫婦は体が不自由で流されてしまった」と生々しい話をしてくれました。辺りを見回すとほんの少しの高さの違いが住民の生死を分けていたと実感できます。静かな町だったことが想像できましたが、現在は作業の大型トラックや、警察官の姿が目立っていました。
3日前に娘さんの結婚式があったAさんは、サプライズでプレゼントされた新しい母子手帳を嬉しそうに見せてくれました。当時のものは津波で流されてしまい、娘さんが新しく大船渡市の手帳をもらいプレゼントしてくれたそうです。中には娘が持っていて無事だった小さい頃の写真や親子写真が貼ってあり、心温まるエピソードとして心に残りました。



Aさんの家があったところ。






Aさんの家から見た景色。
<感想>
 小野寺先生から、震災後直後の陸前高田市では役所が機能せず、医師達も支援を行うことが出来なかったと聞きました。医療が活きるためには国の対応、自治体の対応がきちんと機能していなければならない、医師は医療のことだけを考えていても思い描く医療が出来ないのだと感じました。
被災された方たちと過ごして、それぞれが抱えている問題が、震災直後では「家族や家を失い、悲しい、先が見えない」という漠然とした、でもみんなが共有・共感できる問題から、個別的でかつ具体的な問題に移行してきているように感じました。時間の経つ速さは人それぞれで、各人に合った段階の支援を提供していくことが大切です。自然の恐ろしさを実感したと同時に、それに立ち向かい協力しながら乗り越えていく人間の強さを強く感じました。


1日目は被災時の話を聞き暗い気持ちになってしまいましたが、23日目に実際に人と会うことで少し考え方が変わってきました。被災して家が流されたけれど、支えてくれる家族がいるかどうかで被災者の心の状況は変わってくるのかなと思います。そこに生きていて笑っている人がたくさんいたので、今はまだ希望が見えないかもしれないけどこれからつくっていけるような気がしました。
3日間を通して、大切なことはまずは医師として何ができるかではなく、私という一人の人間として、このような現場に直面した時に何ができるかを考えることなのではないかと思いました。私が医師になった時、今回の経験したことを活かして、冷静に判断し患者さんに寄り添い、広い視野で物事を見つめて医療をつくっていけるようになりたいと思います。


観光名所の碁石海岸。観光客は全くいませんでした。
またたくさんの人でにぎわう日がきますように。

美味しい美味しい秋刀魚!


2011年12月7日水曜日

お茶っこ会フィールドワークに行ってきました Part.1

東日本大震災から半年が経った912日~14日、私達医学生2人が岩手県を訪れ、支援活動などに参加してきましたので、紹介します。

日程
 
9/12・・・川久保病院(盛岡医療生協)の医師と懇談
9/13・・・お茶っこ会に参加
9/14・・・大船渡市や陸前高田市を見学、
     碁石海岸(リアス式海岸で観光名所)を散策


訪れた仮設住宅の1つ。規模や住宅の形は様々でした。
~まず始めにお茶っこ会とは~
川久保病院では、医療支援が終了したあとの支援活動として閉じこもり予防、入居者の安否確認、体調チェック、困りごと相談、コミュニティ確立を目的とした『お茶っこ会』を行なっています。「~っこ」とつけるのはあちらの地方の方言です。職員3人が1チームとなり、大船渡市の仮設住宅を対象に週3回、午前・午後と仮設住宅の場所を変えて活動をしています。11軒を訪ねてお誘いから始まり、健康チェックや体操、歌を歌ったりおしゃべりをしたりして過ごしています。



1日目 
川久保病院の小野寺医師と懇談

 川久保病院は、被災地である三陸沿岸から約100キロ離れた内陸部の盛岡市にあります。内科・外科・小児科・眼科・歯科からなる120床の病院です。
 川久保病院では、震災当日から数日間は停電が続きナースコールが使用できなかったために、職員が交代で患者さんのベッドに付き添って介助していたそうです。現在の被災地は「医療機器も失い患者もいなくなり、開業医は撤退し始めている、医師には他県から働かないかとオファーがきていて、このままだと医者もいないし住めないし、ゴーストタウンになりかねない」と懸念されていました。又、「国は救急医療を担っている病院にしか補助金を出さない。政治の仕組みを変えお金の使い道を変えるよう要求していくことが大切だ」と話していました。被災地域では義援金が出たために、収入とみなして生活保護受給者を資格からはずしている自治体も増えてきているそうです。

 
2日目
お茶っこ会に参加


病院から片道2時間半以上かけて大船渡市へ行きました。午前のお茶っこ会参加者は11人。7080歳代で全員女性でした。まずは血圧を測り受付。そしてリハビリ体操、童謡の合唱、風船バレーボールなど声を出して盛り上がりました。会の中心となっていた看護師さんも、「山田市出身で両親は被災され、ふるさとはなくなってしまった」と話していました。午後の参加者は5人。この日は奥州市のはからいで観光ツアーがあって仮設住宅からバスが出たので、多くの人がそちらに参加したそうです。いつもの部屋では今後の対策会議が行われており、隣の小さい部屋で方言かるたを楽しみました。

お昼に町を歩いてみました。この小学校のすぐ目の前(写真左側)に海が広がっています。


公民館も市役所も郵便局もすべて跡形もなくなっていました。
町の記念樹だそうです。メッセージが残されていました。

止まった時計。

9月でもまだまだ瓦礫が山積みでした。

 









     Part.2につづく・・・・・・・・